観世音寺の看板

所在地 太宰府市観世音寺5丁目6番1号ほか
指定名称 国指定史跡 観世音寺境内および子院跡
指定日 昭和45年9月21日
大宰府政庁の東に接して建てられた観世音寺は大宰府の庇護(ひご)のもと九州中の寺院の中心となり、「府の大寺(ふのたいじ)」と呼ばれた。
百済(くだら)(たす)けるため九州に下った斉明天皇(さいめいてんのう)朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)で亡くなり(661年)、その子天智天皇が、母の菩提(ぼだい)を弔うためにこの地に観世音寺建立を発願(ほつがん)したことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている。
寺は80数年かけて天平18年(746)に完成し、天平宝字5年(761)には僧尼に戒を授ける戒壇(かいだん)を設置、奈良の東大寺・下野(しもつけ)(栃木県)の薬師寺と並んで日本三戒壇の一つに数えられている。
かつては方3町(約330m四方)の寺域を占め、講堂・金堂・五重塔などの建物が整った大寺院であったが、その後、火災や大風にあい、創建時の建物は失われている。
現在の金堂と講堂は江戸時代に黒田藩主が再建したもので、県指定文化財となっている。
どのような建物があったのか 観世音寺には往時の寺院建物を描いた絵図がつたえられている。おそらく平安時代末頃の様子を再現したものである。築地塀(ついじべい)で囲まれた内側に中門と講堂を回廊で結び、さらにその内側には西に金堂を、東に五重の塔を並べて建物を配置している。絵図の左下には戒壇院(かいだんいん)も描かれている。
発掘調査で何がわかったのか 観世音寺境内やその周辺部で九州歴史資料館による発掘調査が進められている。調査の結果、本堂周辺に残る16個の礎石は創建講堂のものであり、建物は7間(約30m)x4間(約15.4m)であったこと、さらには講堂の礎石や塔の心礎も創建時から動いていなかったことが確認されている。
また、講堂正面の基壇(きだん)の調査では現在までに、5回の拡張が行われていたことも判明している。
巨大な仏像と日本最古の梵鐘(ぼんしょう) 創建時に金堂や講堂におかれていた仏像はほとんど失われているが、宝蔵には平安時代から鎌倉時代につくられた高さ5mほどの巨大な仏像を含めて18体の仏像、狛犬(こまいぬ)舞楽面(ぶかくめん)などが収めらている。この他、鐘楼(しょうろう)も吊るされた国宝の梵鐘は、京都妙心寺と兄弟鐘とされ、日本最古の梵鐘と考えられている。