岩屋城の古戦記(高橋紹運)

九州に覇を唱えた薩摩島津、豊後大友、肥前龍造寺の3氏鼎立の均衡を破ったのは島津氏であった。肥前龍造寺を破り、豊後大友氏の支配下にあった太宰府に攻め寄せた。
大友氏は大阪の秀吉に救援を求め、秀吉は自ら九州征伐に下ることにした。
大友宗麟は太宰府の紹運、粕屋の立花宗茂に死守を命じ、頑強に抵抗させた。
薩摩の島津義久は武将島津忠長と伊集院忠棟の2将を総勢約5万の大軍を擁して太宰府に押し寄せさせた。
忠棟は荘厳寺の禅僧快心を2度、智将薩将新納武蔵守蔵人を紹運の城内に送り降伏を勧告したが、紹運は「生きて2君にまみえんより、死して武士道を完うせん」と拒否した。
忠棟は5万の大軍に総攻撃を命じた。
凄惨な激戦が孤城岩屋城の周辺を真っ赤にして、太宰府を流れる染川を鮮血で染めたという。
激闘実に14日間にして岩屋城は落城、城将紹運以下763名の将兵は悉く玉砕した。
優勢を誇った島津軍の死傷者も実に4500人を数えたと『筑前国続風土記』は伝えている。

1586年7月26日39才の紹運は割腹して果てた。
島津軍は宝満城を死守していた紹運の次男統増(むねます)をあざむいて捕らえ、長男統虎(むねとら)の守る立花城を攻めたが、秀吉の援軍到着と極度の疲労のため引き上げた。
遺言で頭を敵軍に送る。敵将はその忠勇義烈を感嘆し、秋月の茂林和尚に弔わせた。
1587年、秀吉は薩摩に入って、島津氏を降伏させ、帰途太宰府の観世音寺の後の山王の社に統虎を召し、父紹運の忠節義死を勧賞したといわれている。
紹運の首は般若寺丘に葬り、首塚を築いた。むくろは岩屋にむくろ塚を造ったといわれている。

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