四王寺

新羅に対するために四天王が祀られ、その名が山の名として今に続いている。
毘沙門天・広目天・増長天・持国天。

円満山・四王寺は、49代光仁天皇勅願で774年、大宰府政庁に宣下があり、翌年大野山の鼓ケ峰に完成、宝殿に四天王が安置祭祀された。

「右左大臣宣、奉勅、大宰府四王寺は新羅の凶毒を攘うために最勝王経説によって、去る宝亀5年の創建なり」『筑紫史談』

新羅が日本侵攻の考えを捨てていないという懸念から、49代光仁天皇が勅を大宰府政庁に下し、高い浄地に寺を建て、高さ丈6尺の4体の四天王像を造立、奉祀させた。
その後、新羅の直接侵攻がなかったので、51代平城天皇は807年、四王寺の四天王像を大宰府の金光明寺に還座させた。
ところが、天下に疫病大流行したため、驚いた大宰府政庁は天皇に奉し、その勅をもって再び四天王像を四王寺に還し祭祀せしめた。

それでも疫病の勢いは少しも衰えず、52代嵯峨天皇は811年2月、勅宣を下して、四王寺に釈迦如来像を造立し、有智山寺の鳳詮法師ら11僧侶に開眼供養を行わしめた。(この時天皇は水田50町歩を寄付された)
以来、四王寺大いに栄え僧坊1000に及べりという。『円満山四王寺縁起』