源平合戦

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平家は清盛の2代前から九州と縁があった。
清盛の父忠盛は肥前国神埼荘の院司の時、宗船に対する大宰府の役人の検査と陸揚げを鳥羽上皇の権威で拒絶し、引き揚げさせた。
清盛は大宰府大弐に任ぜられても赴任しなかったが、弟の頼盛を大宰府大弐に任じた時には赴任させた。
清盛は櫛田神社を博多に勧請したり、日本最古の人工島袖の湊を作ったりしたと言われている。
1183年平氏は木曽義仲に京を追われ8歳の安徳天皇(1180 - 1185)を奉じて西走した。
原田種直に先導されて太宰府安楽寺に逃れてきた。
しかし、豊後の豪族緒方惟義に攻められて太宰府から敗走した。
平家物語によると
国母をはじめ参らせて、やんごとなき女房たちは袴の裾を高く取り、大臣殿以下の卿相雲客は指貫の側を高く挟み、跣徒足で水城の戸を出で、われ先にわれ先にと箱崎の津へこそ落ち給う。
降節下る雨、車輪の如し、吹く風砂をあぐとかや。
落つる泪、ふる雨、分きて何れも見えざりけり....。
1185年3月24日平氏は壇ノ浦で滅亡した。
平氏と共に栄えた博多は宗商人が帰国してしまい、博多百堂は寂びれていった。
源頼朝の戦後処理は徹底的であった。太宰府安楽寺を平氏に味方したとして壊滅した。

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