大宰府政庁の建物

遠の朝廷(とおのみかど)、大宰府の中心となっていた所で、12世紀まで500年間建っていたといわれている。 最初は水城や大野城と同時に建てられた礎石を用いない掘立柱の建物で2回ないし3回の立て替えが行われている。
8世紀になって建てられた第2期の建物は朝堂院形式の建物配置で南門・中門・正殿・後殿が一直線に並び、東西対象に脇殿が配置、築地で囲まれ、正殿と中門は回廊で結ばれていた。
礎石立ちの建物で屋根には瓦が葺かれている。
941年藤原純友の乱で焼けた後、第3期の建物が造営されている。
礎石を中心に門や回廊、周辺の役所跡等も整備復元され、史跡公園が作られている。
現在は、5段くり出しの礎石が36個残っているだけだが、その大きさは必見。
大宰府は南北22条(約2.3km)、東西24坊(約2.5km)の都市計画があったという学説がある。
その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなもの。
西鉄五条駅は五条の位置。三条という地名は昔三条の位置に住んでいた人が移り住んだ場所。
東西南北に大路小路がめぐらされ、国分寺や観世音寺などの大寺院が軒をつらね、北側には庁舎が並び、南側に民家が集まった。
当時としてはもはやスラム街の竪穴住居の群れも、そこかしこに散在していた。