大宰府政庁の起こり

4世紀大和朝廷は日本を統一した。
朝鮮半島南半分は新羅、百済、任邦(みまな)に3分されていた。
任邦は大和朝廷の支配地で日本府が置かれていた。
百済は漢城(ソウル市東部)に都をおき、倭(日本)と親密な関係をもっていた。
高句麗好太王碑には「391年、百済・倭連合軍が高句麗と戦い、敗れた」と刻まれている。

536年大和朝廷は那の津(福岡市南区三宅)のほとりに官家(みやけ)を修造した。(日本書紀)(比恵遺跡付近とも言われている)
官家は出先官庁。その頃は三宅付近(竹下、大橋)が海岸であった。

大和朝廷は朝鮮征伐を度々行っている。562年任邦は新羅に滅ぼされた。
609年筑紫大宰(おおみこともち)という名が日本書紀に現われている。(日本書紀推古17年4月条)
大宰府は九州、壱岐、対馬、種子島を治め、国防の役所である。

660年唐が20万の大軍で新羅を助け、百済を攻めた。
百済からの要請で斉明天皇が軍をひきいて救済に向かった。
斉明天皇は筑紫の地で70歳で亡くなった。(斉明天皇7年条)

663年皇太子中大兄皇子(天智天皇)が救済軍を送って百済を助けて戦わせたが、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされた。白村江の戦い

中大兄皇子は壱岐、対馬、筑紫に防人と烽火(すすみ)を置き、水城の堤防を築いて唐・新羅の侵略に備えた。
2つの山城と水城の堤防は百済の亡命貴族が当時の最先端技術で設計した。
大宰府を水城の堤防の南に移した。
水城が破られることがあれば山城大野城に移すことになっていた。

その後外交方針を変更し、唐・新羅と使節の交換が行われるようになった。
唐から664年5月に郭務そう、9月に劉徳高と郭務そうが来た。
667年11月唐の百済占領軍の使いが「筑紫都督府」(筑紫大宰府の中国風名称)に来た。
701年大宝律令によって整備され、政府の出先機関としての性格を強めている。

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