対馬、壱岐での蒙古の残虐さは凄まじく、「ムゴイ」という言葉はこの時できたということである。
開戦当初の九州の軍勢は5000から10000であった。
小弐経資の弟、景資が大将となったが統率権はなくばらばらに闘った。
今津湾で簡単に日本軍を討った後、元軍は博多湾に進入した。日本軍は百道原まで退却した。
元軍は室見河口から上陸し、日本軍は祖原を本陣にして迎え討った。
- 八幡愚童記より
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てっぽうとて鉄丸に火を包みて激しく飛ばす。
あたりて破るる時は四方に火炎ほとばしりて烟を以ってくらます。
またその音甚だ高ければ、心を迷わし肝を消し、目くらみ、耳ふさがりて東西を知らず...。
日本軍の消耗は激しく、一旦後退して陣営を立て直すことになり、全軍博多を放棄して水城に立てこもることになった。
周辺の人たちがかき集められ、昼夜兼行で壕を掘り直し、堤を修復したと記憶されている。
当初造られた時は異国来襲時、博多を水浸しにする予定であった。
610年後、博多は水浸しでなく、火まみれになってしまったのである。
10月20日の夜半から翌朝にかけて神風が吹いた。
元軍の大宰府への総攻撃を覚悟していたが、海を見ると博多湾を埋めつくしていた900艘の軍船がいない。
神風と人々が信じたのは当然のことだったろう。