戒壇院

ひとりごと

昔のお坊さんの学校です。

案内

 761年、聖武天皇の勅願によって観世音寺に置かれた戒壇院は、僧尼として守るべき戒律を授ける所であった。
奈良の東大寺、下野(栃木県)の薬師寺と並んで日本三戒壇といわれた。
西日本で仏門に入る人はここで(かい)をうけて僧尼になった。
唐僧鑑真が帰化後、初めて授戒を行ったことでも知られている。鑑真は盲目の高僧。日本へ来るのに6度渡航を試み10年もかかった。
日本の仏教界は8世紀に入って戒律を授ける僧侶がいなかったため、僧や尼僧の規律が乱れた。鑑真来日の目的は日本に3つの戒壇院を設立することであった。
本堂にある本尊木造盧遮那仏(国重要文化財)座像は平安時代後期の作。
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戒壇石に刻まれた標語「(くん)酒山門に入るを許さず」寺院は清浄な場所なので、臭気のある野菜(ネギ、ニンニク類)、酒、肉を不浄の物とし、寺門内に持ち込むことを許さないということ。
江戸時代黒田光之の時期に観世音寺から離脱独立、聖福寺の末寺として禅宗様の本堂を建設している。

看板より('95太宰府市)

 戒壇院は「天下の三戒壇」の一つとして天平宝字5年(761)、筑紫観世音寺境内の西南角に設置された。
唐僧鑑真(がんじん)は5度渡航に失敗し、身は盲目となりながらわが国に戒律を伝え、天平勝宝6年(754)奈良東大寺に戒壇を設けた。
ここ西戒壇は下野(しもつけ)薬師寺の東戒壇と同年に創設され、九州の僧尼たちの登壇受戒の道場として敬承されてきた。
 江戸時代、寛文年間より黒田藩家臣鎌田昌勝、豪商浦了無(うらりょうむ)等によって再興が続けられ、現在に伝わる開山鑑真和上(がんじんわじょう)像、本尊脇侍(わきじ)、梵鐘等も新造された。
元禄16年(1703)藩命によって博多禅宗四ケ寺の管理となり、観世音寺を離れ、現在は博多聖福寺(しょうふくじ)の末寺となっている。
なお本尊盧遮那仏(るしゃなぶつ)平安時代の作で国の重要文化財に指定されている。
戒壇院境内
戒壇院リンク
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