講堂を中心にして五重塔、金堂を東西に並列し、これを取り囲むように南大門、中門、鐘楼、敬蔵、僧房など七堂伽藍が配置され、西日本仏教界の重鎮であった。(川原寺を簡略化したものと考えられている)
奈良法隆寺、薬師寺とほぼ同じ規模であった。
創建当時のもので残っているのは国宝の日本最古の梵鐘と諸堂の礎石、天平石臼などである。
平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)が数多く残り、昔の繁栄をしのばせている。
現在は1688年福岡藩主黒田光之のもと、福岡すのこ町の天王寺屋浦了夢の寄進造立の講堂と金堂(県指定文化財)の二堂が残っているだけである。
905年の「筑前国観世音寺資財帳」には仏殿、仏像・経典・仏具・荘園など、おびただしい財産が記録されているが、藤原純友の略奪や1064年の大火で消失、再興後もたびたび火災にあっている。
本尊は聖観世音菩薩。
戦時中の観世音寺(思い出をメールでいただきました)
久留米市が、空襲に合い、焼け出されて、疎開したのがこの観世音寺隣の戒壇院。
このとき小学3年生。蝉を探して、境内をうろついたものです。
境内には、陸軍の兵隊が、多数駐留していました。
8月15日の玉音放送があったその晩、あっという間に、兵隊は、いなくなりました。
空襲もなく、灯火管制もない、明るい夜を迎え、子供心に、戦争が終わったのを実感しました。
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以下のようなメールをいただきました。
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私の曽祖父は観世音寺の寺侍で、江戸幕府の瓦解まで黒田藩の下級武士として代々観世音時で暮していました。
櫻井さんの年表から1688年に黒田藩により再建されたことを見て、名も無き黒田藩の下級武士として暮していたのかと感動しました。
746年に斉明天皇の命により完成したことも知りました。
私の大叔父は大戦前後に近衛騎兵隊として天皇陛下の警護をしていました。
何らかの形で天皇とかかわりがあったのも不思議な感慨を抱かざるを得ません。
五条駅から徒歩10分。
〒818-0101太宰府市観世音寺5-6-1(tel092-922-1811)
見学自由