8世紀始め政治体制が整うにつれて官吏の養成が急務となり、奈良や太宰府に大学、地方に国学を置いた。
全盛期の学生数百人。(九州一円の国司・郡司の子弟)
博士、音博士、明法博士、学授などとよばれる一流の教授人が、厳しく鍛え上げた。
音は音律のこと、明法は法律で、このほか算道、文章、書道など、儒学を基本にした堅い教育内容だった。
吉備真備が754年大宰大弐として赴任、以後10年間学校院の設備の充実に力を注いだ。
当時、三史(史記・漢書・後漢書)がなく、769年朝廷に奏上して、中国の正史各1部が下賜されたという。
平安時代には体制が整い、876年には先聖(孔子)、先師(顔回)、びんしけんの三聖人を祀る聖堂をつくり、せきてんの礼が行われていた。
しかし平安末期には閉鎖され、その跡も明確でない。