菅原道真
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ひとりごと
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菅原道真(すがわらのみちざね・845〜903年)
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学問に秀でた菅原一門の平安前期の公卿・学者・政治家。従二位。右大臣。
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(『日本紀略』によると
923年4月20日従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈る
993年5月20日(6月26日とも) 左大臣正一位を贈る
993年閏10月20日 太政大臣を贈る)メールで情報いただきました。
是善の子。京都の菅原院に生まれた。
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宇多・醍醐両天皇の時代、文章博士・蔵人頭などを歴任、藤原氏の専横を抑えるため右大臣となった。
- 894年遣唐使に任命されたが、建議して奈良時代から続いた遣唐使を廃止した。
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901年左大臣藤原時平のざん訴により大宰権帥に左遷され、903年2月25日流刑地で憤死し、安楽寺に葬られた。
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道真は時平より26歳年上で、道真は宇多上皇と醍醐両天皇の信望厚く、天下の政治を専決すべき密詔をいただいた。
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道真は固辞したが、時平らは妬んで、道真が女婿斉世親王(宇多上皇の皇子)を擁立しようとしていると偽って奏上した。
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時平は芝居気たっぷりの魅力的で世才・権謀術にたけた政治家だった。
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菅公は怒りの神様、雷様になって時平を苦しめたという。詳しいことは大鏡の左大臣時平を参照。ざくろ天神。いかり天神。
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菅公が亡くなった翌年から都で落雷が相次ぎ、時平が急死、醍醐天皇も亡くなった。
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朝廷は菅公の怒りを鎮めるため、元の位に戻し各地に流されていた子供達を都に戻した。
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菅公には息子10人、娘3人いた。長男は土佐に流された菅原高視卿。
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菅公は漢詩や和歌・書に秀でていたので、学問の神様、天神様として、全国各地に祭られ、広く民衆に信仰されるようになった。
- 編著「日本三代実録」。漢詩文集「菅家文草」「菅家後草」(「菅家後草」は左遷された後の血を吐くような詩で、優れているといわれている)。白太夫が道真の一生の詩を菅原高視卿の元へ持って行った。
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月夜見梅花は11歳で初めて詠んだ詩。
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菅公は武道も優秀で弓の名手だった。